なんだか力が入りませんが…

風邪で横になっている間にいろいろ考えてみたけど…、実力もないのに無理やり博士課程に行くくらいなら、もっときっちりプロジェクト演習をやる修士課程にもう一回入りなおした方がいいと思った。5年か10年くらいは働いてからになると思うけど。
DC系に関しては、学際領域を扱うコースなのにプロジェクト演習がこんなに弱いのは、どうかと思う。別にアートプロジェクトをやったほうがいいということを言いたいわけではなくて、むしろそういうのは学校がやる必要ないと思うんだけど、3コマか4コマくらいのボリュームで何か成果を出していくプロジェクト演習が必要じゃないか。
トヨダさんの上映会だって、写真と日記(ブログを含む)について、リサーチしたり、自分たちでブログをつくったりした後に、やっていればぜんぜん意味が違ったはず。アートプロデュース学科しゃないんだから、興行は必要ない。レベルの高い、すでに完成した作品をもってきても、そのジャンルに興味がなかったらどうしようもない。でも、写真の可能性を考えていくプロジェクト演習をしていれば、僕ら以外の学生もトヨダさんのスライドショーをもっと興味深く見たのではないか。
ブログができてから、ずいぶんたつので、技術的な開発がこれからどれだけあるのかはわからない。でも、ブログを身体的に把握して表現の媒体として選ぶアーティストがこれからでてくる可能性はある。それはブログで注目されて作家になる人がいるのとは違う段階のことだ。アーティストが画材や素材を選ぶように、そのひとつとしてブログが選ばれる可能性だってある。表現としては拙くてもその可能性をプレゼンテーションすることはDC系の研究室でもできるはずだと思う。
管先生は明治の建築の展示を評価してたけど、では建築学科と我々の違いはといったら、結局は限定された課題にとりくんでいるかどうか、ということではないか。
石山修武の『建築はおもしろい』(王国社)を読んでいたら、早稲田の建築科のカリキュラムのひとつ「設計実習」が紹介してあった。「例えば、紙をクシャクシャに丸めて、その何処かに興味ある部分を発見し、スケールを拡大して表現せよ」という課題が一週間か2週間単位で出されるそうである。これは学部2年のプログラムで石山氏によれば、早稲田の学生の自由な発想の飛躍力はこの「設計実習」によるところが大きいそうだ。でも、実は美術系の大学にいた僕にとって、この手の課題はおなじみのものなのでもある。
それよりも、こうした発想を鍛える課題と、現実のローカルな条件による課題の関連が興味深い。では、ローカルな条件が与えられた課題とは何か。例えば、早稲田と東北大学の合同課題の石山氏の講評が下のURLで読める。
http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp/www/jp/hintabout.html
課題は「課題東北地方のしかるべき土地に、農と食の 21 世紀的モデルとして、ある種のスクールを設計しなさい」というものだ。この課題は、建築だけに有効なことだろうか?建物以外に、東北地方のしかるべき土地に、農と食の問題で提案できることはないだろうか?あると思う。この課題だって、DC系にも応用可能なはずだし、さまざまな視点からのプロポーザルを作成することができるだろう。ファッションでも音楽でも映像でも、アプローチは可能だと思うし、それらの講評は管先生なら可能だと思う。
本来は事務がやるような業務を先生がやらされていることもわかってはいるけれど、いくら映画を見ても映画監督を育てることはできないと思う。映画監督になりたいやつに映画を見せるのはできるけど。そもそも映画を見て、見すぎて映画監督になる人は勝手に見るから、わざわざ見せる必要もないはず。映画を3本見たら、シノプシスの1本でも作るか、マンガを描くとか、何か次の段階にシフトしてもいいのではないのだろうか。別に形式が全員一致しなくたっていいんだから。
ウォーキングのプロジェクトはいいものにしたいけど、毎週の授業だって、もっと刺激のあるものになるはず。すごい映画を見るとか、そういう受動的な体験で、すごいすごいと言っても消費者になるだけ。批評的精神も必要だけど、批評=創造ではないと思う。
やっぱり、拙くてもみんなの写真でスライドショーしたり、小さなシンポジウムして、トヨダさんのスライドも上映したかった。トヨダさんのスライドを、「はてな」の近藤さんに見てもらいたかった。プロジェクトじゃなくてイベントだったからな…。学部生にDC系を宣伝するというのが大きな目的だったから、しかたないか。うーん、力が入らん。