映像と物語、そして映像と芸術

今月上旬に行ったオープンゼミで、かわなかのぶひろ氏と田中功起氏に来ていただいて、レクチャーをしていただいた。かわなか氏は映像作家、田中功起氏はアーティストである。おふたりの活躍する領域は異なるが、連続した関心をもって講義を聴くことができたと思うし、そのような意図に基づいて講師を選択させていただいた。
ただ、司会をした僕の力量不足でそうした連続性がわかりにくかったと思うので、いくつか補足する。あらかじめ断っておくと両者は十分すぎるほど親切丁寧な言葉でレクチャーをしてくれた。これから書くことは企画者側として説明が足りなかったと思われる企画意図についての補足である。

まず、映像は物語の従属物とは限らないということ。これは考えてみれば当然なのだが、消費社会において現実に流通する映像のほとんどが、物語を用意してその説明のための映像でしかないから、一般的には理解されにくい。しかし、例えばマンガを見てもわかるように、マンガの絵は必ずしも物語に従属しない。大友克洋のマンガの絵がもし物語の説明という機能のためだけにあるならば、これはまったく違う絵でも成立することになる。
映像もマンガと同様に、物語があっても、それが物語に従属するとは限らない。
僕の見識では、映像にとって物語はあってもなくてもいい。いや、物語があってもなくても映像は成立するといったほうがわかりやすいだろうか。
そして、映像の可能性を追求するとき、物語が映像をかくしてしまうことがあるというのは、頭に入れても困ることはないだろう。物語があることによって、しばしば映像を見逃してしまう(マンガでいえば絵の妙味をまったく視野に入れない)のだ。目では見ていても、映像として知覚せずに、物語に置き換える変換作業だけを行ってしまうケースだ。
河岸から花火を眺めるとき、川面に映る花火の美しさは、花火師がどこにいるとか、花火の歴史とか、火薬に成された工夫や、その河の歴史などとはとりあえず関係なく、ただ美しいと知覚されるのだ。
だから、もう当然、映像は物語がなくてもいい。というか、映像はすでにそれ自体としてある。そして、もちろん映像にとって物語はあってもいいのだ。
真に優れた映像表現は、まず映像として優れている。つまり映像的な力がある。そして、その映像に物語がある場合、その主従関係は常に拮抗し入れ替わる可能性を孕んでいる。そこにスリルがある。
実際に映画史上の傑作として挙げられる作品は、物語の説話の効率からは逸脱した映像的な場面によって輝く時間をもっている。ミケランジェロ・アントニオーニの『さすらいの二人』のラストの長回しや、『欲望』でのテニスのパントマイム。それらは、確かに物語があることによって成立する。物語の構造から逸脱し、突然、映像の強度が極限まで高められる。誰もが眼を見張るだろう場面である。
しかし、やはり映画史で数えられぬほど語られてきたオーソン・ウェルズの『黒い罠』の冒頭で車が爆発するシーンを考えてみよう。特筆すべき移動撮影による長回しで知られるこの場面を見ているとき、観客は物語構造をほとんど把握していないから、画面の運動をじっと見守るしかない。その衝撃的な映像は実際に見てもらう(傑作です!)として、ここではこの映像は物語の説明というよりは、物語の起爆剤として機能していると指摘しておくにとどめる。
とにかく、映像は物語に奉仕するためのものではない。奉仕することもあるが、そうでないこともある。物語と映像の主従は常に入れ替わる可能性をもっている。物語をうまく語れていない映像でも、映像の力がある場合もある。ただし、それが物語のための映像としてつくられていた場合、その映像は製作者の意図からは評価できないものとして扱われることになるだろう。

以下に箇条書きで整理してみる。
・映像には物語があってもいい、なくてもいい。
・映像と物語に主従関係があったとしても、その関係は常に入れ替わる可能性がある。その可能性がない映像は、おおむね退屈である。
・映像の可能性を追求する者たちは、当然、物語がない映像作品を多くつくり、それらは映像にとって大きな財産となった。
・一方で、物語のある映画を制作する者たちの中にも、映像を物語に従属させることなく、映像でしかできないことを探究する人間がいた。彼らがつくった作品は、シナリオのイラストではなく、またシナリオがある写真でもなく、映像運動における表現の可能性を拡大した。

さて、映像と物語についてはひとまずここでストップ。
かわなか氏は映像作家だが、田中氏の場合は映像を使っていない作品もある。映像を使っている作品も映像は素材であって映像作家とはいえないだろう。だから、映像はテーマのひとつではあっても、(素朴な意味での)映像を考える2夜ではなかったのだ。
隣接し、ときには重なり合う「映像」と「芸術」という領域を移動すること。その思考の移動、渡りに今回のオープンゼミの意図はあった。その2点間の移動は、決してその線分には収まらない思考の運動を示唆していた。映像メディアの実現の背景には科学技術があった。その発展には大衆の反応が大きく影響した。「芸術」は「映像」をとり入れ、「映像」は「芸術」をとり入れ、お互いに寄り添うようにしながら、いつも互いを裏切ってきた。それでも、芸術的な映像作品、映像的な芸術作品はつくられてきた。
ここには、より広い意味での表象につきまとう問題があると思う。

それぞれの領域で本質的な表現を試み、だからこそ領域を超えて影響を及ぼすお二人をお招きした意図を、ここで書いておきたかったのですが、整理しようとして余計にわかりにくいことを書いているかも…。
もちろん、聴講してくれた方が自由にいろいろ考えてくれれば、それでいいのです。余計な蛇足ですみません…。