本の森

7月20日に鹿児島で藤浩志さん、森司さんと僕の3人(豪華な2人。そしてなぜか僕!ごめんなさい)でトークするので、本と本がつくる空間について考えながら、メモを書いてみた。うーん、やっぱり管先生の影響もあるな〜。でも、我ながら無駄が多い。まぁ、メモなので。
それはともかく、本も美術もそれだけで価値があると思っている人に対しての疑いが僕には強い。ただの表象じゃん。ひとつの作品に価値があるとしたら、その表象のあり方に価値があるはずなのに、文化ジャンルとして美術が偉いみたいに思っているやつとか、そういうふうにふるまうやつが多すぎる。本も同じ。世界の表象の一形式ってだけなのにさ。
今、考えると藤さんが現代美術の世界からほとんど離れていた鹿児島の生活って大事な時期だったと思う。パプアニューギニアもそうか。パプアニューギニアに行く前の段階で、展覧会とかやるとアーティストってオープニングでちやほやされた華やかな雰囲気でたのしいと思ったりしちゃうけど、実体がない世界で、このままどっぷりつかっているとダメになると思っていたという話をしてたもんな。
僕も現代美術や日本の出版がまったくないところで何年か生活しないとダメだろう。東京(正確には川崎)にいても、なるべくその類の人たちとは関わらないようにしているんだけど。
まぁ、そんなことはともかく7月20日はたのしみです。ちょっと不安だけど、藤さんと森さんがしっかりとした話をしてくれるだろうから大丈夫でしょう。
以下、メモ書きです。

本の森
本は、常に不完全なもの。そこに記されているのは、世界の中の限られたごく一部。著者の思考がほんのわずか表出した結果でしかない。閉じられているのは、世界の断片でしかない。だから、本は本質的には読み終えることはできないものだ。1冊の本を体に染み入るようにまで読みこんでいけば、新たに読むべき5冊6冊の本に気がつく。1冊の本の背景には100冊の本が隠れている。1冊の本に印刷された字をなぞることはできる。だが1冊の本に含まれる可能性は、その本の物理的な制約を超越したところにある。
もう一度。本は読み終えることができない。1枚の写真だって完全に「見る」ことができないのと同じだ。
本が並び、空間ができる。それは縮小し変形した世界の模型。ラテンアメリカ文学と日本のコミック雑誌と建築写真集と料理の本。その間に世界がある。そこからはみ出す世界もある。世界を想像する。
本を読んでも何もわからないと人は言う。もちろん、それは極端な言い方で、わかることもある。だけど、やっぱりわからないこともある。しかし、逆説的に本は「ほら、君は何も知らない」と教えてくれている。本の役割は情報や知識の受け渡しだけではない。欠落に気づかせてくれるのが本だ。そして、その欠落を埋めるのは読書でなくたっていい。そこから先の身振りは人それぞれ。更なる本の森に入り込んでもいい。あるいは本の文脈を辿る旅に出て、本に書かれていた間違いを見つけ、新たな発見をするのか。いずれにせよ、それは世界の更新だ。
本棚がある。本の林。本の森。本の海。書かれていることが本当かどうかはわからない。藤浩志的言葉を使えば違和感の山かもしれない。違和感があるからこそ、更新されるのを待っている世界をイメージすることができる。
折りたたまれ綴じられた紙の束。本の数だけの世界の見方がある。世界によりそうように書かれた書物でさえ、世界そのもののあり方からずれていく。どんなに細心の注意をもって撮影し、精緻に印刷された写真集でも世界そのものとは異なる表情が入り込む。表象の宿命。
本は読み終わらない。世界を完全に知覚することが不可能なように。だからといって、本を読むことが無駄なわけではない。想像可能な世界がぐんと広がる。あるいは本に囲まれているだけでもいい。本は、世界がそうだったかもしれない可能性のひとつ。
鹿児島の本の森の中で、どこか遠くの場所を想像すること。全く知らない場所をイメージすること。そこから先は?