青森雑感(2) レジデンス+スタジオ=創造の予感

国際芸術センター青森がなぜ好きかというと、そこが創作の現場だからだ。アーティストが滞在し作品を制作する施設。そこではゆっくりとした時間かもしれないが創造的なことがおきている。あるいは、創造が行われるのが待たれている。常に創造の予感がある。
美術館は創造の結果を展示する場所だ。もちろんそういう施設も展示公開に加え、作品の収集と保存、研究など大事な役目をもっている。だけど、野球でいえば、野球場をつくらないで、野球の殿堂ばっかりつくっているのが今のアート業界のような気がする。熱意のあるギャラリストたちがエージェント的な役割を担い、アーティストの経済的な部分を支えている一方で、そうしたマーケットの規模以上にたくさんの美術館があるのってどうなのか。アーティストは経済的に自立できないのに美術館ばかり増えてどうするんだ。いや、公共施設の美術館が経済原理に従う必要はないかもしれないけど、だったら創造的なできごとが生まれるような施設をもっとつくってもいいのではないのか。
たいていの創造は美術館の前の段階、アーティストのアトリエとか、街中とか、そういうところでおきている。美術館はそこのところをごまかしているような感じがする。気のせいかな。
美術館の悪口を書いてしまったけど、学芸員だってバカじゃないし、アーティストの応援をしているし、創造的なことを行いたいと思っているはずだ(と信じたい)。だから、僕には増えすぎたように思える日本の美術館がこれからどうなるのかっていうのは注目していたい。
とにかく今のところはどんな美術館より国際芸術センター青森のが好きだ。じっくり滞在できる場所があって、作品を作るための設備がある。それを応援する人たちがいる。これ以上の何を望むのかというぐらいステキな場所だ。
そして、これからこういう場所をこれからつくるのは、美術館の学芸員たちよりも、その地域ごとに自主的な動きをつくろうとする熱を帯びた人たちのような気がする。
きれいな展示室や空調設備を備えた収蔵庫を用意するのは資金が必要だ。でも宿泊施設と作業場なら、用意できるはず。国際芸術センター青森安藤忠雄の立派な建物だけど、そうである必要はない。使われなくなった建物の使い道を考えている地域があったらアーティスト・イン・レジデンスにすることを考えてみてほしい。
徳島の神山町ではこんなことになっている。
http://www.in-kamiyama.jp/art/kair/
青森を歩きながら、取手でいっしょに遊んだ山中カメラさん(遊んでたのは僕で、山中さんは一生懸命制作してたんだけど)が今頃は徳島にいるんだなと考えていた。山中さんは四国でも人気者に違いない。おじちゃんやおばちゃんたちに愛されているのが目にうかぶ。
アーティスト・イン・レジデンスといってもいろんな運営の仕方がある。青森の場合はただ外部からアーティストが来て作品を制作するだけじゃなくて、市民がスタジオを使えるのもいい。創造の場所だ。神山町の場合はちょっと違うけど、アーティストと市民の交流により長い時間をかけて創造的な可能性が広がるだろう。別に市民がスタジオで作品を作らなくたって、自分たちでできるかたちで誰かに何か関係することが大切なこと。みんなで食べる料理をつくったり、畑でとれた野菜をもってきたりとか、掃除をするとか、いっしょに森を歩くとか。
僕はどちらかというと創造的な人間ではない。でも、世界に創造の可能性がないとしたら、できあがったものを見るだけ、消費するだけが世界だとしたら、もう本当に死にたくなる。一歩も歩けなくなる。
青森では、管先生や学生のみんなと歩くことで、とても励まされた。愛ちゃんに励まされた。今、確かに世界に触れているという感覚があった。この感覚を誰かに伝えたいと思った。まだまだやるべきことがあると思った。
なんか話があちこちに散らばってしまったけど、そんなことを考えて歩いていたのでした。