アート??

「アート」という言葉は嫌いだ。嫌いだけど、ブログのカテゴリにアートとしている日が多い。結局、自分が関心をもっている人の活動が「アート」というジャンルに分類されて流通しているからしかたないのかもしれない。
僕は、何かを作る、今ある何かに手を加えて新しい価値を付け加える、そういう活動をしている人に関心がある。惹きつけられる。そういう人はアート業界以外にもいっぱいいる。もっと目と心をオープンにして動きたい。
「アート」業界みたいな世界には関心がもてないというのはここ数年ではっきりした。アーティスト以外にも、アート業界でクリエイティブなことをやっているキュレータやギャラリストはいっぱいいる。その人たちの働きは本当にリスペクトすべきものだ。だけど、その動きが業界内部の価値観に収束してはつまらない。
おいしいものを食べて、うれしい。幸せだ。初めて食べたものの味に驚き感激する。おお!すごい!これ、どうやって作っているの?
絵画も彫刻も写真も映画も、そんなふうに体験したい。美術館やギャラリーの歴史よりも、人の創造の歴史は古い。「アート」という言葉が生まれる前に、今「アート」と呼ばれるものは作られていただろう。洞窟絵画を見るように、一枚の写真や絵を見たい。
アート(と呼ばれる)ものに関わっていて、例えば展覧会の会場で「これもアートなんですか?」って訊かれることがある。本当に。正直、なんて答えればいいのかわからない。「アートです」って言えばいいのか?「違います」とも言えないけどさ。作家は「アートかもしれない」、その可能性を問うために展示するのだと思う。
「アート」って何と今さらの疑問を考えてみる。審美眼的な何かは関係してくるだろう。美しい/美しくない、あるいは感動する/感動しない。それは個人の感性と判断に委ねられている。社会的に「アート」として認知されるには、個々の審美眼的判断がある程度集まって次の段階に移行するかどうか、どういうプロセスをとるにせよ「アート」というシステムの問題になってくる。僕がいいと思うものでも「アート」として価値をもたないものもあるし、その逆もある。それはいい。当たり前のこと。
でも「これもアートなんですか?」という問いになんて答えればいいのだろう?僕は今までそんな問いそのものが間違っている(でも、その質問をする気持ちももちろん理解しているんですよ)と思って、まぁ適当に言葉を濁してきた。だけど、最近そうもいかないかな、という気がしている。というのは、僕も似たような質問をしていることがわかったからだ。
先日、右手の爪の形が変になったので病院に行ったのだが、原因は爪の付け根の皮膚の下にあるということだった。軽い炎症らしい。「薬を塗っていれば治りますから」と言われているのに、僕の口から出た言葉は「えーと、それって病気ってことですか?」。なんかバカ丸出しな気がするけど、本当にそういう質問をしていた。
アート/アートではない。病気/病気ではない。そんな区分けの稜線が存在するのか、よくわからない。結局、僕としてはおもしろいものが見たいだけ。それが「アート」と呼ばれようが呼ばれなかろうが関係ない。でも、「病気」だったら困るけど「病気じゃない」と言われれば安心してしまう。それでいいのか?うむむ…。
とりあえずの「アート」の定義を僕なりに試みてみる。無数にある世界記述に対する審美的な判断と態度、姿勢、価値観。それらを個々人にとどめず、動かすこと。他者の判断を受け入れ共有する、あるいは拒むという判断も含めて、そうした価値観の動きを認めること。そんな心と体の運動の総体とそこから生まれる個々の表現、世界の記述、記述を続ける生き方の実験、実践、それらを「アート」と呼んでいいと思う。教育上の意味での正当な美学を学んでこなかった僕の言葉だから間違っているかもしれないけれど、僕にとっては、「アート」ってこんな感じ。かなり曖昧で「定義」という言葉の定義からもズレてしまう。でもズレることだって重要なんだ。たぶん。
本当は好きとか嫌いじゃないんだ。ただ、あるもの。あったもの。誰かが名づけた。アート。言葉が流通し共有され、実態も言葉の意味も常に更新されてきた。「アート」の外も内も、僕が触れることができるのは世界のほんの一部。でもそんな一部の局所的な何かが、大きな広い世界につながっていることを教えてくれる。遠くに連れて行ってくれる。今、ここではない場所に意識をふっ飛ばす。そんな体験は、とてもとても大好きです。