『2時間35分』→『世界の使い方』

ユーチューブを眺めてたら、RCの「2時間35分」が見つかった。以前に探したときはなかったはず。しかも2つも。
http://jp.youtube.com/watch?v=7aSEetyWAWo
http://jp.youtube.com/watch?v=EhS_8UQuE5s
初期の映像と比較的最近のもの。最近といっても、もう18年前!でも最近な気がする。ああ、そうか、このあたりでRC名義の活動は休止しているんだね。うーむ、でも清志郎って古くならない感じがする。
この歌の歌詞にある、好きな女の子と長電話で話す状況は携帯電話がある今とは全く違う。でもそれは、今の人はわかんないよね、とかそういう話ではないのだよ。そういうことをいうおじさんは、そうっとしておきましょう(でも、僕もおじさんか)。状況が変わっても、この歌は古くなっていない。だから、この歌によって携帯電話がなかった時代の電話の状況(と、それをとりまく人間関係)を若い世代が知ることになる。清志郎、おそるべし!

ふと、思ったのは電話という道具が変わって、使い方も変わる。その使い方がポイントなんだということ。「使う」というのが。
修士論文もそのあたりのことを書きたい。藤浩志さんが「まちづくり」という言葉の違和感から「まちづかい」と言っていること、あるいはニコラ・ブーヴィエが旅行記に『世界の使い方』というタイトルをつけていること。
田中功起の「everything is everything」も、世界の使い方についての映像だと思う。それは僕が思ってもみなかった方法だけど、見ているとストンと腑に落ちて、たのしい。
http://jp.youtube.com/watch?v=ym0LaSAn5n8&eurl=http://kktnk.com//video_files/widget5_markup.html
世界の新しい使い方。
取手アートプロジェクト2008では、アーティストが団地の使い方を試みている。
http://www.toride-ap.gr.jp/index.html
http://tap2008.exblog.jp/
使っていく人がいつの間にか新しいものを作るというのが本当ではないか。大量生産される商品を間に挟んで、それを作る企業と、消費者に分かれてしまっている。消費者は使うだけ。下手すると使いもしない。ただ使うためではなく、買うことに動機があったりする。この構造が強くなればなるほど、消費を拡大するロジックだけで世界が更新されることになる。そうではなくて、使っていくうちに使う人が自分の価値観で改良していけばいい。そして、その価値観と使い方に共感する人がいれば、価値観は共有される、新しい使い方として流通するだろう。世界の使い方はいくつもあっていい。みんなだれかの使い方を真似る。いろんな人の使い方を少しずつとりいれ、使ってみる。そのうちに自分の使い方になる。そんなイメージ。
うーむ、これで論文になるのか。まずは、もっともっと大学を使わないとね。