田中功起さんのレクチャーも終了しました(2月5日)。たのしい、たのしい夜でした!

2夜連続の管研究室のオープンゼミの第2夜、田中功起さんのレクチャーも熱気のある聴講生に恵まれ終了しました。今回は高校生も来てくれて、本当にうれしいです。
前夜のかわなかさんのレクチャーは、もう全部かわなかさんにおまかせでしたが、今回は僕もがんばりました。と、いっても田中功起さんの話はわかりやすいし、僕はほとんど相槌を打っているだけ。もっと鋭い質問をするべきなんでしょうね。でも、田中さんの思考の開き方が明快なので、映像を見て田中さんの話を聞くという贅沢な時間をただ単純に愉しんでしまいました。お客さんもそれで満足してたみたいだし、質問や意見も出たし、うれしいです。
内容は、田中さんの作品を、(だいたい年代順に)映像で見ていきながら、合間合間にご本人の解説をしてもらうという進行。
まず、東京造形大時代の作品を見せてもらえたのが収穫。感激。哀川翔が扉を開けて部屋に入ると、部屋の中に哀川翔がいる、という映像。はっきりいって、こういうのは好きです。これを文学でやろうとすると、同じ人間がもう一人という状況にリアリティをもたせるのは大変。手順がいる。視覚芸術、しかも映像メディアを使えばこれは一発で解決する。まさに内容と表現方法の相性がいい、的確な仕事。うーん、くだらないけど、おもしろい。おもしろいけど、くだらない。くだらないけど、美術領域でも文学でも「もう一人の自分がいる」という主題によってしばしば作品が作られてきた。意図してないとは思うけど、表現にとって本質的なテーマかも。だって、おもしろいもん。この作品、熊本現代美術館にコレクションされているそうです。哀川翔がこの作品を見ているところを見たい!
それから「ビール」を見れたのもよかった。ともかく田中さんの話を聞けてうれしい。司会のくせにただのミーハーで、お客さんにも田中さんにも申し訳ないです。でも、豪華な時間でした。
最近の作品ももちろん、おもしろい。もうひとつよかったのは、例えば展覧会である時期の作品だけを見るのとは違って、田中さんの活動の変遷を視覚と言葉の両方で辿れたのは、聴講した方たちにとって非常にいい体験だったと思う。
ありあわせの材料、今ここにある現場、条件。そこで何ができるか。何をするか。手を動かす。触ってみる。いじる。考える。手を動かす。映像を見れば明確、明快。田中さんの言葉の使い方もいい。例えば彼の作品のタイトルが、作品の最初の批評として成立している。「Take some plastic cups」「Watch the water go away」。そして「everything is everything」。これは作品もタイトルも本当にすごい。YouTubeでも見れるんだけどインスタレーションで見てほしい。あの、奇妙な、変な感じはやっぱりインスタレーションでぐっと強い磁場をもちます。それにYouTubeで見れるものは、スクリーニング用に編集したもので、展示とは違うバージョンになっています。もちろん映像だけでも十分におもしろいし、すごいけど、チャンスがあればインスタレーションもぜひご覧ください。
というわけで、宣伝です。群馬県立近代美術館で3月29日まで、田中功起さんの作品が展示されています。
http://www.mmag.gsn.ed.jp/
僕もまだ見に行ってませんがおもしろそうです。「常設展示 現代の美術II 特集:田中功起」という常設だけど企画性のある展示のようです。「たとえばここ最近の作品をすこし違ったかたちでみせること」というタイトル。
さらに「青山|目黒」というギャラリーで2月21日から3月21日まで「シンプルなジェスチャーに場当たりなスカルプチャー」という田中功起さんの個展が開催されます。
http://www.aoyamahideki.com/index.htm
どちらの展覧会のタイトルにも田中さんの思考が刻印されていると思います。こちらも、ぜひ足を運んでみましょう。
えーと、オープンゼミの様子は管啓次郎先生(http://monpaysnatal.blogspot.com/2009/02/blog-post_2822.html)と、聴講しに来てくれたフランス語の清岡智比古先生(http://tomo-524.blogspot.com/2009/02/blog-post_06.html)のブログでレポートされています。そちらをご覧ください。上の僕の文章より、すっきりと理解しやすく説明されています。
レポートは以上です。ここからは、僕の感想。
田中功起という名前と作品は、アーティスト、アートとして流通している。でも、僕にとってはクリエィティブな行為を実践する実験者、活動する人、日常の冒険家。試みている。限定された環境、現場で何ができるかを問い、応答する人。だから、ふだんは美術館に行かない人にも見てもらいたい。おもしろい、わくわくする、見つめてしまう。僕にとって田中功起の作品を見るのは、優れたサッカー選手の作品を見るのと同じ。「あっ!」と思った瞬間、思いもしなかった運動が目の前で行われる。僕がない思い込んでいた、選択肢にも入れていなかった行動が鮮やかに差しだされて、世界が広がる感じ。世界の可能性を拡張、更新してくれる人。あるいは世界が豊かだということを身をもって、身振りで証明する人、田中功起
・一般的に、美術館には完成した作品が展示される。だから、アーティストの創造的事件、クリエィティブな瞬間というのは美術館にはそう多くはない。もちろん、作品との出会いそのものが鑑賞者にとって創造的事件であるし、作家による作品創造という意味でも美術館が現場になることはある。でも、美術館は創造の現場性は低いと(とりあえずは)いっていいだろう。ところが田中功起の作品は美術館で見ても(あるいはYouTubeで見ても)、事件を目撃した気持ちになる。映像によって作品に時間をもちこんでいるという理由もあるが、映像を使っていてもそんな気持ちになれない作品は世の中にいくらでもあるから、理由はそれだけではないだろう。いいかえれば、通常、美術館で見るのは創造の結果である。そして、ときどきイベントとしてライブが行われる。すなわち創造行為がもちこまれ、事件がおきる。だけど田中功起作品はプロセスの中に結果があって、結果の中にプロセスがある(もちろんそこには編集が介入するわけだけど)。あるいは創造のプロセスと結果が同じレイヤーにあるといっていいかもしれない。
他にもいろいろ思うことはあったけど、長くなるのでこのへんでひと区切り。
充実した夜、イメージが飛び火した一夜でした。田中功起さん、聴講してくれたみなさん、ありがとうございました。