マイケル・オンダーチェのシンポジウム(6月12日)

カナダ大使館で作家・詩人のマイケル・オンダーチェがテーマのシンポジウム「すべてはコラージュ」が開催されたので行ってみた。
3人の研究者が話をしてくれたが、時間が足りなくて最初のトリスタン・コノリーさん以外は途中で終了という残念なことになっていた。打ち合わせ不足というか、プロデュース側の設定ミスかな。後半二人の内容がよかっただけに残念。早稲田大学の藤本陽子さんのお話は、また機会があれば聞いてみたい。
オンダーチェにとって故郷との再会が常に不幸な形でなされた。作品での故郷の描かれ方も、創作時期によって変化が見られる。いすれにしても、オンダーチェの作品において移動、異郷、異文化、コミュニケーションの不具合が重要な背景になっていることは疑いない。そして、そのようなキーワードが文学研究の領域で重要になっているのは今さらいうまでもないこと。だが、そうした文学研究者だけではなく、例えば僕にとってもそれらの言葉は大きな意味をもっている。結局のところ、僕が関心があるのは、文学でも美術でも、人はどんな場所でどんなふうに生きていけるのか、という可能性を示唆するような人・作品だ。ジャンルがないと成立しない作品には興味はない。
もちろん、文学の歴史がなかったらオンダーチェという作家が生まれたか、という問いはあまり意味がない。もちろん、文学史からオンダーチェを語るのもいいだろう。だが、今回の研究者はさすがにそれは回避しているし、それでいいと思う。とにかく、文学作品だけではなく、それ以外のたくさんの経験・事象がオンダーチェの作品には溶解している。オンダーチェの作品がコラージュである以前に、オンダーチェの人生がコラージュようも継ぎはぎされているのだ。そして、それは特別なことではない。僕の人生も、誰の人生も、なんの脈絡もない何かがいつも接続されてきたはずだ。
ところで、会場入り口にオンダーチェの本が原書(英語版)と日本語版が並んでいて、『バディ・ボールデンを覚えているか』の原書Coming Through Slaughter を読んで見ると、日本語版を50回以上は読んでいるので、英語の意味もだいたいわかってしまい驚いた。ところどころ、ああ、こういう英語だったのか、という発見があっておもしろい。でも、これじゃあ英語の勉強にはならないだろうな…。もっと読み込んでいないものか、日本語版がでていない作品を最初から英語で読むのもいいかも。