ASLE文学・環境学会全国大会

ASLE文学・環境学会全国大会に参加してきた。
管先生やダニエラたちと「Walking 歩行という経験」というテーマで研究発表を行った。僕は、堀江敏幸の「子午線を求めて」というエッセイと、そこに登場するヤン・ディベッツの美術作品について。10年前から思っていたことを、しどろもどろに話しただけの研究というにはおこがましいものだけだったけど、いい経験になった。
管先生やダニエラの話はもちろんのこと、僕の同級生パコと伊藤君の話もおもしろかった。とくに伊藤君の研究は写真表現のスタイルの確立と流通を考える上で重要な視点を提供してくれた。歩行の経験はあらゆる行為に関係してくるから、複数の人間が発表すると幅が広がっていい。
と思っていたら質疑応答の時間に「みなさんはお互いの研究にどういう関心をもっているのですか?」という質問があった。これは痛いところをつかれた。もちろんお互いの研究に関心はある。研究者としては未熟な僕でも、他の人の研究に無関心ということはない。でも、今の段階ではそれぞれの個人研究が単発で存在しているだけなのは明白だ。事前にでも、もっとディスカッションして、研究領域は違うけど共通の認識みたいなものをつくってもよかったかも。
そういえば、藤さんが公約数と公倍数の話をしてたことがあった。地域でプロジェクトを行うと立場とか知識が違う人が集まって何かをするから、できあがるものがそれぞれの因子の公約数で成立してしまうことが多い。けれども、いいプロジェクトは公倍数で成立するという話。公約数でやることってのは、要するにあれもだめこれもだめで、共通認識できる因子だけお互いが認めて行うので、できあがってくるものも小さくまとまってしまう。反対に、公倍数でものをつくれるとみんなのそれぞれ異なる因子が、集まって共有されることによって、より新しい関係や成果が生まれるという話。
考えてみると、クレオール文化の発生は、初めは公約数だったものが、それぞれの因子と関連づいて豊かな公倍数になるモデルとして捉えることができるかも。あるいは、もともとはなかったのに強制されたひとつの因子が、みんなの公約数として機能して、それぞれがもつ因子と結びつき、さらに共有されて公倍数が大きくなるとか。言語学でのクレオール研究は語学センスの全くない僕には難しすぎる問題だけど、クレオールの生成プロセスには興味がある。
本来、そういうこと(文化研究の一部としてのクレオール研究というよりも、クレオール的実践)に関心があって大学院に入ったのに、我々学生の個別の因子は揺さぶられることなく保持されたままで、なんの呼応関係も生まれていない状況は本当に残念。ただし、ウォーキングに関しては、9月中旬の青森での合宿を経て、展覧会でみんなの公倍数を研究室の成果として見せることができそうだ。今回の発表はまだスタートということだろう。でも、普段からそういう公倍数をつくることが当たり前にできたらいいんだけどな…。個別に勉強するだけなら学校でなくていいと思うもん。もちろん、最終的には個人の努力が大切なんだけど。
話を文学・環境学会に戻すと、なるほど興味深い話を聴くことができた。コロンビア大学ハルオ・シラネさんの基調講演は、日本文学における自然の記述形式と自然観について。歴史的な流れを丁寧に整理して、とてもわかりやすく説明してくれた。問題設定のしかた、データのまとめかた、論旨の導き出しかたとすべてにおいて参考になる。
アイヌ活動家の長谷川修さんは、アイヌの活動状況を紹介してくれるとともに、怒りと悲しみ、そして希望という相反する気持ちをさらけ出してくれた。長谷川さんは、アイヌの未来に諦観している部分をもちながら、希望ももっている。気持ちの振れ幅が人の情の厚みをつくるという気がした。
長谷川さんが「逃げた」という街、旭川に僕は4年前に行った。4月なのに雪が降っていてひどく寒かったのを覚えている。いつか、また行くことがあるだろうか。
シラネさんや長谷川さん以外にも、いい発表があった。ただ、環境文学という文学のサブジャンル研究に収まるものが多いのが文学研究プロパーでない僕には残念だった。別に文学以外の芸術を入れろといつつもりはない。でも、文学と環境の関係を考えるならば、もっと幅広い視座があっていいだろう。大学や学会がディレッタントの再生産に専念する場所なら僕は興味がもてない。文学は環境を表象するだけでなく、環境をつくる起点になることだってあるはずだ。文学は環境を表象しているわけだけど、その文学が流通するのは現実の世界だし、そこには環境がある。少なくとも個人的には、そういう視点をもっていたい。うーん、なんかいいたいことがでてくるだけでも学会の意義はあるのかも。自分がまだまだ勉強不足なのもよくわかるし、こういう機会は大切にしたい。
夜の森の中を歩いたり、朝方に渓谷を歩いたのもすばらしい収穫だった。環境の中に生きていることを再認識した、刺激的な3日間だった。