僕が影響を受けた人ともの

4月16日のデザインアート史の授業(近藤先生)で、学生それぞれが今まで自分が影響を受けたものについて自己紹介を兼ねて話しましょう、ということになった。まぁ、先生も学生が何を考えているかやりにくいということですね。
というわけで、僕は藤浩志さんと指導教官でもある管啓次郎さん、そしてアンディ・ゴールズワージーの名前を出す。結局、こういうのはその場限りの、制約にもとづいた仮説でしかない。アンディ・ゴールズワージーに関していえば、影響を受けたというよりは、影響を受けそうな予感がする、といったところ。学生のときはゴールズワージーの作品はピンとこなかった。きれいだなと思ったけど。今、彼の作品集を見ると、シンプルで強い意志が形になっているのにしびれてしまう。

影響。「もしこの人に出会わなかったら」という問い。その答えと今の僕のベクトルにどれだけふれ幅があるか(このいい方は変だ。その人に会って振れた方向に今の僕がいるのだから)。いくつもの名前を挙げてその振れ幅の大きさに思いをめぐらせるけど、ため息がでるだけでちっともイメージなんてできない。
では、その人たち、ものたちとの出会いが必然だったといえるかというと、もちろんそんなことはない。偶然が導く世界との出会い。でも一方で、偶然としか思えない出会いでも(いや、だからこそか)これは事件だと確信できることもある。

影響を受けた人とものをもう一度考えてみよう。直接出会った人もいれば、書物や映画などのメディアによっての限られた出会いもある。とにかく思いつくままに。

藤浩志、管啓次郎、ハミッシュ・フルトン、平出隆大竹昭子、「100人の子供たちが列車を待っている」(イグナシオ・アグエーロ)、山形国際ドキュメンタリー映画祭ジョナス・メカスかわなかのぶひろと新宿そして阿佐ヶ谷、辻直之と横浜、クリス・マルケルヴェンダースゴダール、「アマチュア」(キエシロフスキ)、ブルース・チャトウィン、『バディ・ボールデンを覚えているか』マイケル・オンダーチェコルタサル、ファン・ルルフォ、山田稔堀江敏幸、森口陽、岡村多佳夫、ポルトガルと大西洋、ピレネー山脈キューバ、鹿児島そして桜島、釧路、『アジェのパリ』(大島洋)、池上恵一、京都、中西信洋、キドラット・タヒミック、ソフィ・カル、『光の引き出し』と『風の地図』(島尾伸三)、ボガンボス、ふちがみとふなとジュンク堂と池袋、山下陽光、高円寺、国立、立川…(敬称略)。

書き出してみると人名とともに地名も多いことに気がつく。その場所のすべてが好きなわけではないけれど、でも忘れられない思い出があり、振り払うことができない記憶がある。影響を受けたのは間違いない。
ここに挙げてない名前だって僕の人生に強い影響を与えた人たちはいっぱいいるし、強い印象をもった場所は他にもある。だからこんなリストは仮のものでしかない。その名前をどれだけ増やしたところで、たいした意味はない。僕が触れることができたのは世界のほんの一部(それでも一人の人間の数十年が費やされている)。その中から記憶に残る名前を挙げたところで、それは世界のかけらのそのまたかけらだ。

とはいうもののこれだけのリストを挙げると、たしかになんとなく僕がどんな人かはわかるのかもしれない。先生が授業を進めやすくなるならばいいのだが、それとは別に思うのは、ここに挙げた人名や作品、地名について僕は語るべき言葉をほとんどもっていないこと。驚くべき堕落。この一年は、言葉を獲得する年にしたい。